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東京高等裁判所 昭和37年(う)2107号 判決 1963年1月28日

被告人 松本勝彦

主文

本件控訴を棄却する。

理由

一、弁護人松本光郎の原判決は法令の適用を誤つたとの所論について

所論は、「原判決はその判示第一の(三)において被告人が判示交通人身事故を惹起した際、その現場において、原審相被告人張東奎に対し「自分は免許がないから頼む」等と申向け、同人をして罰金以上の刑に該る罪である判示業務上の過失傷害の犯行をなした本人である如く虚偽の申立をする決意をさせて同人を教唆し、これに基き同人をして同所において行われた実況見分に際し、右張東奎をして豊川警察署司法警察員に対し右犯行を犯した本人である如く装つて犯行当時の状況の指示説明をなし更に同警察署において司法警察員の取調を受けるに際し自分が運転中右犯罪を犯した旨の虚偽の供述をなさしめた事実を認定し、犯人隠避教唆罪に該当するものとして、刑法第一〇三条を適用したが、同法条は犯人が自ら自己を隠避した場合に適用がないことは明らかである、それは人情の自然から所謂期待可能性が存しないからである。然りとすれば犯人が他人を教唆して自らの犯罪を隠避せしめる行為は犯人自らが隠避等の行為を為す場合の或る特殊な態様に過ぎないから、右行為は罪とならないものである、然るに原判決が判示身代り教唆の行為を刑法第一〇三条、第六一条に問擬し被告人を処罰したのは、法令の適用を誤つたものである」と云うに在る。

思うに、犯人が自ら犯した犯行につき隠避的行為をなす場合は犯罪を構成するものでないことは所論の如くであるが、他人が他人を教唆して自己を隠避させた場合は、これと趣を異にし、犯人隠避教唆罪が成立すること固より当然である。斯かる教唆行為は自ら限度あるべき犯人の自己防禦行為としての放任行為の範囲を明らかに逸脱しているが故である。所論の如き解釈に従えば、他人の犠牲において即ち他人を教唆して犯罪に陥入れて自らの犯した犯罪の発覚を合法的に防止することを許すが如きこととなり、かような解釈は到底採用の余地がないものと云はなければならない。従つて原判決が、本件身代り教唆行為に対し、刑法第一〇三条、第六一条を適用して被告人を犯人隠避教唆罪を犯したものとして処断したことは正当であること勿論であつて、原判決には何等法律の適用を誤つた廉あることなく、所論は採用に値せず、論旨は理由がない。

二、各弁護人の量刑不当の所論について

各所論は、原判決が被告人を懲役七月の実刑に処したのはその科刑重きに過ぎて不当であるというに在るので、記録を精査し当審における事実取調の結果を加えて、本件犯罪の罪質、動機、態様、被告人の年齢、性行、経歴、交通規則違反の前科、家庭の状況、犯罪後の情況その他量刑の資料となる総べての事情を綜合勘案し、殊に被告人は自動三輪車の免許は有していたが、大型自動車の運転免許を有しないにも拘らず、大型貨物自動車の無免許運転をなし、その運転中不注意にも原判示の如き無理な、追越運転をなして自転車に乗つて進行中の少年を道路脇に駐車中の小型貨物自動車との間に挾み少年を負傷せしめ、偶々その場を通りかかつた同僚の運転者張東奎を身代り犯人に仕立て国家の犯罪捜査権の行使に妨害を与えたものであつて、幸にして少年の負傷は比較的軽かつたが、被告人のこの一連の犯罪行為は犯情決して軽いとは認められないから、所論の被告人に利益な諸事情につき斟酌を加えても、被告人を懲役七月の実刑に処した原判決の量刑は重きに過ぎて不当であるとは考えられないし、右刑の執行を特に猶予すべき事由は認められない。従つて各弁護人の論旨はすべて理由がない。

よつて刑事訴訟法第三九六条に則り本件控訴を棄却することとし、主文の如く判決する。

(裁判官 尾後貫荘太郎 鈴木良一 飯守重任)

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